第19話 山内一豊に学ぶ|コラム 先人に学ぶ

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第19話 山内一豊に学ぶ

1.山内一豊の生涯

山内一豊は、天文十四(1545)年、但馬守藤原盛豊の第二子として尾張の国に生まれました。父盛豊は、二分していた織田家の信安方に仕え、家老となり葉栗郡黒田城を預けられていましたが、永禄二(1559)年、織田信長の岩倉城攻めで父盛豊死去により、織田浪人として流浪の中に時を過ごしたといわれています。  翌永禄三(1560)年、桶狭間の戦いで信長が頭角を現しました。一豊は、その後の永禄十(1567)年以後に信長に仕えるようになったといわれています。
信長の直臣であった一豊でしたが、戦場では臆せず前面に出るものの、目立った働きもなく、人生が過ぎていきます。彼の人生の転機は、早い段階で秀吉に仕えたことにより訪れます。秀吉は百姓の出であった為、家来が少なかったことにより、高待遇で迎えられます。
天正十(1582)年、本能寺の変で信長が倒れると、跡を継いだ豊臣秀吉は、天正十八(1590)年の小田原征伐において後北条氏を滅ぼし、天下統一を果たしました。家康は関東へ移封され、家康の旧領には秀吉配下の大名が配置されました。 一豊は譜代の家来として大名となります。同年九月二十日、正式に相良.榛原三万石余、佐野郡内二万石、計五万石を領地すべき朱印状を得、掛川城に入城しました。時に一豊46歳のこと。秀吉にとって天下統一を強固なものにするために、掛川は大井川をひかえて東西勢力の真ん中に位置する戦略的拠点です。この掛川をおさえ徳川を牽制するには、今川・徳川・武田の兵乱によって荒れ果てた掛川を軍事的、政治的に強固な拠点につくりあげる必要がありました。そこで秀吉は、伏見城建築に携わった経験のある一豊を配置し、大規模な城郭と城下町づくりを指示しました。
ところが秀吉の死後、事態が一変します。家康が頭角を現し、関ヶ原の合戦へと突入したことです。 関ヶ原合戦前の慶長五(1600)年7月。秀吉の後継を狙う石田三成は、家康の東進に参軍した諸将を牽制するため、諸将の妻子を大阪に監視しながら西軍方の確約に奔走します。悲観したガラシャ夫人が自害するなどの事件が起き、緊張が高まっていました。一方、そのころ掛川城の一豊は、上杉景勝討伐のために大阪から東へ下る徳川家康を迎えていました。その夜、監視下に置かれ一時は自害をと決意していた妻千代から、自分の身はどうなってもよいから家康に忠誠を尽くすべきことをしたためた密書が一豊のもとへ届きます。一豊は、この密書を開封せず家康に手渡しました。妻を見限る覚悟で家康への忠誠を誓い、しかも開封せずに家康に手渡すという行為で、自分に二心が無いことを表明します。 更に、石田三成の西軍が蜂起すると、家康が諸将を集めて「どちらにつくか?」と問います。その時、絶妙のタイミングで一豊が東軍につくことを宣言したことにより、あの一豊が徳川につくのならと諸将はこぞって徳川へ味方することを決めたと伝えられています。
関ヶ原合戦の後、家康が秀忠と諸将の功績を論じたとき、「山内対馬守の忠節は木の本、其他の衆中は枝葉の如し」と庭前の木を指して話したと伝えられるとおり、家康に一豊の行為が深く刻まれたことは間違いありません。こうして家康が天下統一を成した後、一豊は土佐二十万石の大大名へと抜擢され、念願の一国一城のあるじとなりました。

2.一豊の成功の本質

人生に大切なものは沢山ありますが、今回取り上げた山内一豊は、スタミナとタイミングに優れた人でした。それが成功の本質となっています。

(1)スタミナ

大した武功のない一豊でしたが、信長、秀吉に使え、戦、戦の日々を送ります。城攻めをすること数え切れず、敵の矢をくぐりながら石垣によじ登り、真っ先に城に攻め上ります。大将格でない一豊は、一番槍を上げるため、常に全力で攻めて行きます。残念ながら武功には恵まれませんでしたが、その姿勢が上司から安心感を誘ったのは間違いありません。常に全力投球し、あきらめない姿勢とスタミナは成功への1つの要件です。

(2)タイミング

無骨な一豊が、皆の意見を左右する局面で活躍します。信長の直参だった時、秀吉には直臣が無く、城持大名となった秀吉は、大量に直臣を欲します。一豊は、こんな自分で良ければと秀吉の直臣へと移ります。このタイミングが、他の諸将より早かったことが掛川5万石の太守へと導きます。  また、関ヶ原の合戦の去就を決めるタイミングでも、いち早く家康に就くことを諸将の前で宣言します。この功により一躍土佐20万石、タイミングの良さで躍進していきます。  タイミングだけを測っている日和見であれば、勿論、このような功もありませんし、スタミナだけの馬鹿正直であれば、このような成功は無かったでしょう。両者の絶妙のコラボレーション(バランス)が成功の本質なのです。

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